今日の授業
2004年12月21日今日の「セクシュアリティと社会学」はトランスセクシャルについてでした。
でも、面白かったのは、肝心なトランスセクシャルについてじゃなくて、途中でちょっとだけ出てきたアセクシャルについて。
前から思ってたんだけど、なんとなく自分のセクシュアリティに疑問があったんで、これで解けた!って感じで、すごく楽になりました。
面白かったスレ
★Aセクシャル 無性 中性 ★
http://love.2ch.net/gay/kako/1014/10144/1014499352.html
えーと、定義とかはこのへんはっときゃいいのかな。
http://www.asexual-japan.net/what.html
*言葉の存在*
社会学に限らず、あらゆるジャンルで扱われていることなんだけど、カテゴリ化(卒論にかかわってるところでもあるな)ってのが人間の思考を作ってる。
例えば、黒板と言う言葉を知らない人には「緑の壁」にしか見えないし、一度空耳アワーを知ってしまうと、もうその歌は空耳歌詞にしか聞こえない。
自分の中に作られたカテゴリに、入ってくる情報を振り分ける行為が思考である、という考え方ね。これはひっじょーに社会的なことでもあって、他者パーソナリティを判別するとき、必ず「カテゴリ」を重視する。
例えば、偏見。これは、カテゴリ的にマイノリティ(例えば同性愛者とか)な対象に向けられる。社会的アイデンテイティ理論では、
・自分の所属する内集団はひいきする
・自分の所属しない外集団を貶めることによって、相対的に自分の所属する内集団を高める
・人は、自分の所属する社会的カテゴリーからアイデンテイティを得る(だから自分の所属するところはイイところじゃないといけない)
というとこになる。だから、少数派のカテゴリは力が弱いから、格好のスケープゴートになる。今わしがやってる卒論だと、外国人ステレオタイプには否定的なものが多いってことだな。
それと同じで、何かが「存在する」ためには、それを定義する「名前」が必要になる。「名前」があるだけで救われるものがある、ということ。今日の授業で出てきたのは、「性同一性障害」という言葉が作られたことによって、はじめて「トランスセクシャル」が見出された(社会的に存在できる)という話。
それまでは「そんなものいない」と、社会から黙殺されていた、ってわけだ。
この、「言葉があるおかげではじめて存在できる」ってことを、今日の授業では図らずも自分も体験できました(笑)。
これは、「言葉のないものになる」という経験が、言葉がないからこそ自覚できない→発見できないという悪循環も関係していると思います。疎外感があるから、どこかに所属したいけれど、所属できるカテゴリが見つからない。それが見つかったときの「やっと所属できる!」という安心感。実際に自分がAセクシュアルかどうかは置いておいて、「所属カテゴリが見つかるということがどれだけ人間のアイデンティティに影響を与えるか」というのは、誰しもが体験することであると思います。
しかし、たった一言「Aセクシャル」って言葉が知識に入ってきただけで、こんなに気が楽になるんだねェ。今まで、ゼミやサークルで恋愛話とか振られたりすると、必死に話をあわせようと苦労してきたモンだったんだけど。
多勢に無勢と言うかまさに「存在しない」と思われていたというか、どうも世間一般というのは、「人工知能以外を恋愛対象にするなんて考えられない」という嗜好の人間は、いないものだと思ってるらしい。ましてや、生身の人間に恋愛的興味がない、というか、生身の人間と性的嗜好は一致しない、っていうのは、同性愛以上にありえないとか思ってやがる。
Aセクシャルは「性欲がない」という定義が一番厳密みたいだけど、3日目の男性向け同人誌を楽しみにしてる自分がそこに入るわけがないので、「人間とセックスしたいとは思わない」ってぐらいの広さの定義が自分の「社会的カテゴリ」じゃないかな。
以前からずーっと違和感を感じ続けていた、「どうして女性の同人屋って、恋愛話ばっか書いて、冒険活劇とか観念世界とか書かないの?」って疑問も、やっと分かった気がする。デフォルトで恋愛話が好きなのが大概の女性で、そこから少し自分のほうが外れてたんだな。
今見返すと、例の「はつかねずみと小鳥と腸詰め」が、非常に恋愛というものに対して、悪意があるというか、攻撃的であることがわかります。いや、そのことは書いたときから思ってたんだけど。
えーとね、なんていうのか……ハッピーエンドも、綺麗な悲恋も否定したところ、恋愛そのものを貶めようとしているような悪意、ってのが、あの小説には入ってるのね。きっと、自分なりに疎外感とかもやもやしたものとか、リアルではぶつけられなかった暗いものをいっぱいつめて書いたんだなぁ、と4年経った今、生暖かく思い出している次第です。
キャラクターは多かれ少なかれ作者を映す鏡ですが、今まで「なんでこんなに童貞キャラがおおいんじゃろ?っつーか、ぶっちゃけセックス嫌いな男ばかりいるのはなんでだろ?」と思ってましたが、分かってみればなんとも簡単な話でした。
*はつかねずみと小鳥と腸詰めに見るセクシュアリティ*
※既にあの話を読んでるオフライン友人向け
・かろうじて「愛のあるセックス」というものに希望を持っているのは、グラフだけ。あとの全員、もうそんなことはどうでもよくなっている。
・ヘーデルはバイセクシュアルだが、要するに自分より背が小さくて守ってあげたくなるような子だったらどっちでもいい。
・ヘーデルもグラフも、ウイリーに対する独占欲や「守ってあげたい」と感じるのは、性欲とは関係のないことだ。
・ウイリーには性欲がない。
・っていうかたぶん、登場人物の中で性欲があるといえるのはもう先生ぐらいだ。
・全員、恋愛はめんどくさい。
・でも、グラフだけは「恋愛をしない」ということに負い目を感じている。あとの3人は、そんなことも考えない。
・グラフはAセクシャルというより、単に経験が少ないだけだと思う。というか、こいつの思考は童貞っぽい。
でも、面白かったのは、肝心なトランスセクシャルについてじゃなくて、途中でちょっとだけ出てきたアセクシャルについて。
前から思ってたんだけど、なんとなく自分のセクシュアリティに疑問があったんで、これで解けた!って感じで、すごく楽になりました。
面白かったスレ
★Aセクシャル 無性 中性 ★
http://love.2ch.net/gay/kako/1014/10144/1014499352.html
えーと、定義とかはこのへんはっときゃいいのかな。
http://www.asexual-japan.net/what.html
*言葉の存在*
社会学に限らず、あらゆるジャンルで扱われていることなんだけど、カテゴリ化(卒論にかかわってるところでもあるな)ってのが人間の思考を作ってる。
例えば、黒板と言う言葉を知らない人には「緑の壁」にしか見えないし、一度空耳アワーを知ってしまうと、もうその歌は空耳歌詞にしか聞こえない。
自分の中に作られたカテゴリに、入ってくる情報を振り分ける行為が思考である、という考え方ね。これはひっじょーに社会的なことでもあって、他者パーソナリティを判別するとき、必ず「カテゴリ」を重視する。
例えば、偏見。これは、カテゴリ的にマイノリティ(例えば同性愛者とか)な対象に向けられる。社会的アイデンテイティ理論では、
・自分の所属する内集団はひいきする
・自分の所属しない外集団を貶めることによって、相対的に自分の所属する内集団を高める
・人は、自分の所属する社会的カテゴリーからアイデンテイティを得る(だから自分の所属するところはイイところじゃないといけない)
というとこになる。だから、少数派のカテゴリは力が弱いから、格好のスケープゴートになる。今わしがやってる卒論だと、外国人ステレオタイプには否定的なものが多いってことだな。
それと同じで、何かが「存在する」ためには、それを定義する「名前」が必要になる。「名前」があるだけで救われるものがある、ということ。今日の授業で出てきたのは、「性同一性障害」という言葉が作られたことによって、はじめて「トランスセクシャル」が見出された(社会的に存在できる)という話。
それまでは「そんなものいない」と、社会から黙殺されていた、ってわけだ。
この、「言葉があるおかげではじめて存在できる」ってことを、今日の授業では図らずも自分も体験できました(笑)。
これは、「言葉のないものになる」という経験が、言葉がないからこそ自覚できない→発見できないという悪循環も関係していると思います。疎外感があるから、どこかに所属したいけれど、所属できるカテゴリが見つからない。それが見つかったときの「やっと所属できる!」という安心感。実際に自分がAセクシュアルかどうかは置いておいて、「所属カテゴリが見つかるということがどれだけ人間のアイデンティティに影響を与えるか」というのは、誰しもが体験することであると思います。
しかし、たった一言「Aセクシャル」って言葉が知識に入ってきただけで、こんなに気が楽になるんだねェ。今まで、ゼミやサークルで恋愛話とか振られたりすると、必死に話をあわせようと苦労してきたモンだったんだけど。
多勢に無勢と言うかまさに「存在しない」と思われていたというか、どうも世間一般というのは、「人工知能以外を恋愛対象にするなんて考えられない」という嗜好の人間は、いないものだと思ってるらしい。ましてや、生身の人間に恋愛的興味がない、というか、生身の人間と性的嗜好は一致しない、っていうのは、同性愛以上にありえないとか思ってやがる。
Aセクシャルは「性欲がない」という定義が一番厳密みたいだけど、3日目の男性向け同人誌を楽しみにしてる自分がそこに入るわけがないので、「人間とセックスしたいとは思わない」ってぐらいの広さの定義が自分の「社会的カテゴリ」じゃないかな。
以前からずーっと違和感を感じ続けていた、「どうして女性の同人屋って、恋愛話ばっか書いて、冒険活劇とか観念世界とか書かないの?」って疑問も、やっと分かった気がする。デフォルトで恋愛話が好きなのが大概の女性で、そこから少し自分のほうが外れてたんだな。
今見返すと、例の「はつかねずみと小鳥と腸詰め」が、非常に恋愛というものに対して、悪意があるというか、攻撃的であることがわかります。いや、そのことは書いたときから思ってたんだけど。
えーとね、なんていうのか……ハッピーエンドも、綺麗な悲恋も否定したところ、恋愛そのものを貶めようとしているような悪意、ってのが、あの小説には入ってるのね。きっと、自分なりに疎外感とかもやもやしたものとか、リアルではぶつけられなかった暗いものをいっぱいつめて書いたんだなぁ、と4年経った今、生暖かく思い出している次第です。
キャラクターは多かれ少なかれ作者を映す鏡ですが、今まで「なんでこんなに童貞キャラがおおいんじゃろ?っつーか、ぶっちゃけセックス嫌いな男ばかりいるのはなんでだろ?」と思ってましたが、分かってみればなんとも簡単な話でした。
*はつかねずみと小鳥と腸詰めに見るセクシュアリティ*
※既にあの話を読んでるオフライン友人向け
・かろうじて「愛のあるセックス」というものに希望を持っているのは、グラフだけ。あとの全員、もうそんなことはどうでもよくなっている。
・ヘーデルはバイセクシュアルだが、要するに自分より背が小さくて守ってあげたくなるような子だったらどっちでもいい。
・ヘーデルもグラフも、ウイリーに対する独占欲や「守ってあげたい」と感じるのは、性欲とは関係のないことだ。
・ウイリーには性欲がない。
・っていうかたぶん、登場人物の中で性欲があるといえるのはもう先生ぐらいだ。
・全員、恋愛はめんどくさい。
・でも、グラフだけは「恋愛をしない」ということに負い目を感じている。あとの3人は、そんなことも考えない。
・グラフはAセクシャルというより、単に経験が少ないだけだと思う。というか、こいつの思考は童貞っぽい。
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