鉄鼠の檻とBRAIN VALLEY
2009年2月22日 読書*舞城王太郎と伊坂幸太郎を間違えていた
探している本は舞城王太郎の「スクールアタック・シンドローム」(新潮文庫)でした。そりゃ伊坂幸太郎の欄を探しても見つからないはずだよ!
*宗教体験と悟り
発作的に瀬名秀明氏の「BRAIN VALLEY(ブレインバレー)」が読みたくなったので注文しました。
いずれBRAIN VALLEY、もしくは京極夏彦氏の「鉄鼠の檻」のレビューとして書こうと思っていたのですが、この二つは並列だと思ったので、感想としてまとめて書きます。
日記を書き始める前に、自分より前にBRAIN VALLEYと京極について書いている人が居ないかググってみました。あればリンクを貼ろうと思ったんですが、何件か触れているものはありましたが、両者を比べている文章は出てきませんでした。
自分も、ページ抜粋してまでこまかく比較するつもりはありません。だって両方あわせたら4000ページぐらいになるじゃん。
BRAIN VALLEY読後の感想と、BRAIN VALLEYを読むと鉄鼠の檻を連想するよ、ということだけ書きます。
BRAIN VALLEYが読みたくなったのは最近のことではなくて、2008年にまとめて京極を読んだときから「これはBRAIN VALLEYを読みなおしておく必要があるな」と思っていました。
ちなみに今まで放置していた京極を読んだのはアニメ化したからです。アニメ化直後ぐらいにまとめて全部読みました。びっくりするぐらい面白かった。そしてアニメ魍魎を1クールに収めたのにはさらにびっくり。ほぼ2話丸ごと京極堂のスーパー蘊蓄タイムに使ってたのに……
1クールのアニメで、25分間キャラが喋って終わるとか(しかも2回連続)、新基軸にしても程があった。
そんな強烈な体験に当てられて、原作(文庫)を一気に読みました。特に「鉄鼠の檻」が気になりました。一番BRAIN VALLEYに結びつく気がしたからです。
BRAIN VALLEYは、人類が今の人類の形に進化していったのは「神」を見たからだ、だったらさらに進化した脳ならより高次の「神」を見るのではないか、その「高次な脳」を作ってみようぜ!という話です。すごいネタバレだ。
これはBRAIN VALLEYを構成する一部であり、BRAIN VALLEYにはこれでもかと「神」と「脳」について山盛り盛り込まれているのですが、大筋はこんな感じです。
もっとも「神」といっても沢山あります。神ならpixivにもニコニコにもたくさんいます。BRAIN VALLEYでいう「神」とは、人類の脳が大脳辺縁系得に前頭葉を進化させたことで見出した「神」です。
あえて宗教でいうならば、キリスト教に代表される唯一神のことでしょう。このblog的にはロウの総大将、パワプロ神ですね。ところで知力のパラメーターがない人修羅はパワプロ神と戦えるんだろうか(ゴッドボイス的な意味で)。とりあえず監視塔が見えないのは確定として。
BRAIN VALLEYでは「神」は、宗教を人類に体験させた切っ掛け、「体験としての神」なので、船笠村では「お光様」であり、唯一神とイコールではありません。「出会った者にとって神としか呼びようのない存在」全般なのでしょう。
BRAIN VALLEYでは、それ(神としか呼びようのない存在)を神だと感じるのは人固有なのか、マウスやチンパンジーも同様に神を感じるのか、人工生命(AL)ならばどうかということを問いかけます。
こうした問いかけは前半から積み上げられていき、後半の「スーパー神降臨タイム」から、一気に際立ちます。この畳みかけは、とてもカタルシスを感じるところなので、ぜひとも前半の長い科学パートも読んでいただきたいところです。
BRAIN VALLEYの科学色が濃いところは、科学蘊蓄の多さではなくて、「計測できるものとしての神」に焦点を当て続けているところです。
神をテーマにした作品は多いですが、神を計測しようとする作品はあまり多くありません。多くの作品では、神は概念です。哲学や文学の領域であり、数値化できるものではないとされます。
「計測できるもの」として神を掴み取ろうとするからこそ、BRAIN VALLEYは科学色が濃いわけです。
最初に鉄鼠の檻を読んだとき、導入部分の「禅僧の脳波計測」から、これはBRAIN VALLEYの匂いがするなあと思ったのですが、読んでいくうちに、これはBRAIN VALLEYの「先」だなと感じるようになりました。
ひとまずはBRAIN VALLEYに戻ります。
BRAIN VALLEYは、観測しうる神を扱うので、体験データが何度も出てくるわけです。神に会った体験、作中では「臨死体験」ですね。
そして、神に会う、いわば幸福な体験と対になって、宇宙人にさらわれる恐怖体験「エイリアンアブダクション」が、作中重要な位置をしめています。BRAIN VALLEY前半の面白さは、アブダクション体験のホラー描写じゃないでしょうか。
ある悲劇の後、メアリーが「脳の中には天国も地獄もある」という考えに至ります。神との邂逅という幸福な幻と、エイリアンに誘拐される恐ろしい幻は表裏一体。どちらも人間の脳内から来たものだ、そう叫ぶシーンです。
ここから、BRAIN VALLEYが鉄鼠の檻に繋がっていきます。
BRAIN VALLEYは、「神秘的な宗教体験」をすべての元として出発します。あまりに強烈、あまりに超自然的、しかし幻だと思うにはあまりに現実感がある体験。そうしたものが人間の脳内に起るのなら、そのしくみを解明して、人工的に作り出せないかという話です。
鉄鼠の檻は、そうした超自然の宗教体験を「受け流す」ことから、禅の「悟り」は始まるのだ、という話なのです。
いうなれば、BRAIN VALLEYで、人々が命を掛けて追い求めたこと諸々を
「なるほど、そんな体験をしたのですか。ではそれを受け流しましょう」
から始まるわけです。
BRAIN VALLEYで、「神を見るという究極の答えを得てしまったら、それ以上の謎はないのではないか」という危惧が出てきますが、鉄鼠の檻はその危惧への回答かもしれません。
神を見るという究極の答えすら「受け流す」ことが「悟り」である。たしかに、これならば神を見ることはなんら危惧には成りえません。
また、鉄鼠の檻前半で、禅僧の脳波を計測しようという話が出るのですが、これはBRAIN VALLEYで言うところの「神を見る脳の働き」を知ろうとする部分と共通します。
鉄鼠の檻での実験目的は、瞑想中の脳波を知ることで、悟りの状態を解明できないかということなのですが、それは「悟り」を理解する上では意味がありません。
悟りというのは、BRAIN VALLEY的な脳の働きで見える宗教体験を「受け流す」ところにあるわけで、「宗教体験をしている脳の働き」を解明しても「悟り」はわからないのです。
BRAIN VALLEYで必死になったことをさらっと流すかのような鉄鼠の檻(というか禅)の流れに、BRAIN VALLEYを読んだ直後だと複雑な気持ちになります。
何故、鉄鼠の檻では宗教体験を受け流すことが悟りだとされるのか。それは、メアリーが叫んだ「脳の中には天国も地獄もある」ということにあります。
神との邂逅体験のような幸福な幻覚も、その裏はエイリアンアブダクションだったりするわけです。つまり、宗教体験というのは、悟りのような、人の感覚を超越した極地とはまったく違う、人の感覚内で起っているものに過ぎないわけです。
だから、それに目を奪われないで、受け流すことが悟りなのです。
普通、強烈な宗教体験を受け流すことはできません。たぶん。もしかしたら死なない限り無理なのかもしれません。だから鉄鼠の檻の作中で、禅は唯一生きたままそこに至る方法だ、という京極堂のセリフがあるぐらいです。生きたまま死者の境地に至る、というのは、まるで臨死体験の比喩のようです。
*認識と現実
BRAIN VALLEYと京極シリーズでは、認識と現実について触れている部分もちょっと共通しています。特にBRAIN VALLEYで、孝岡(主人公)がアブダクション体験をしている時の録画ビデオを見せられているシーンは、姑獲鳥を思い出しました。
基本的に両者とも「意識」、人の心を扱った話なので似る部分が多いのは当然なのかもしれませんが、アプローチが違うので比較すると面白い部分です。
言葉が「認識」に与える影響については、京極のほうが丁寧に描かれています。特に「塗仏の宴」では、言葉によって認識が誘導され、揺さぶられる様子が描かれています。
BRAIN VALLEYでは、メアリーの記憶がかなり唐突に書き換えられている部分があります。どのような方法で書き換えたのか、あるいはメアリー自身が認識したくない現実をねじまげて過去を捏造したのか、はっきり描かれていません。こうした部分は、京極シリーズのほうが事細かに書かれていたりします。
一方、京極シリーズでは薬物を使った記憶操作は、多少触れるのみでほとんど描かれていません。BRAIN VALLEYでは、「脳内での化学反応と記憶」の関係が丁寧に描かれています。個人的にBRAIN VALLEY前半は「脳内での化学反応と記憶」についてのスーパー蘊蓄タイムだと思います。
違う切り口から「認識と現実の差異」について描かれているので、両方を読むことでそれぞれのアプローチから、いかに人間の認識が脆弱なのか、何を信じればよいのかがわからなくなるスリルを楽しむことが出来ます。
基本的に、BRAIN VALLEYはスーパー蘊蓄タイムに次ぐスーパー蘊蓄タイムです。圧倒的な畳みかけは、「これ小学生に話す内容じゃない」と突っ込まれるのもうなずけることと思います。
鉄鼠の檻もスーパー蘊蓄タイムに次ぐスーパー蘊蓄タイムであることは同じですが、個人的に
「BRAIN VALLEYを読みきった人が鉄鼠の檻も読みきる確率」より
「鉄鼠の檻を読みきった人がBRAIN VALLEYも読みきる確率」のほうが低い気がします。
BRAIN VALLEYが話>>キャラクターなのに対し、鉄鼠のほうは話≦キャラクターぐらいに感じました。鉄鼠はキャラクターが楽しめればスーパー蘊蓄タイムが苦にならないような気がするのですが、BRAIN VALLEYはキャラクター補正でスーパー蘊蓄タイムを読みきるのはけっこう大変でした……。
ページは多いですが、どちらも大変面白い作品です。興味があれば是非読んでもらいたいなと思います。
探している本は舞城王太郎の「スクールアタック・シンドローム」(新潮文庫)でした。そりゃ伊坂幸太郎の欄を探しても見つからないはずだよ!
*宗教体験と悟り
発作的に瀬名秀明氏の「BRAIN VALLEY(ブレインバレー)」が読みたくなったので注文しました。
いずれBRAIN VALLEY、もしくは京極夏彦氏の「鉄鼠の檻」のレビューとして書こうと思っていたのですが、この二つは並列だと思ったので、感想としてまとめて書きます。
日記を書き始める前に、自分より前にBRAIN VALLEYと京極について書いている人が居ないかググってみました。あればリンクを貼ろうと思ったんですが、何件か触れているものはありましたが、両者を比べている文章は出てきませんでした。
自分も、ページ抜粋してまでこまかく比較するつもりはありません。だって両方あわせたら4000ページぐらいになるじゃん。
BRAIN VALLEY読後の感想と、BRAIN VALLEYを読むと鉄鼠の檻を連想するよ、ということだけ書きます。
BRAIN VALLEYが読みたくなったのは最近のことではなくて、2008年にまとめて京極を読んだときから「これはBRAIN VALLEYを読みなおしておく必要があるな」と思っていました。
ちなみに今まで放置していた京極を読んだのはアニメ化したからです。アニメ化直後ぐらいにまとめて全部読みました。びっくりするぐらい面白かった。そしてアニメ魍魎を1クールに収めたのにはさらにびっくり。ほぼ2話丸ごと京極堂のスーパー蘊蓄タイムに使ってたのに……
1クールのアニメで、25分間キャラが喋って終わるとか(しかも2回連続)、新基軸にしても程があった。
そんな強烈な体験に当てられて、原作(文庫)を一気に読みました。特に「鉄鼠の檻」が気になりました。一番BRAIN VALLEYに結びつく気がしたからです。
BRAIN VALLEYは、人類が今の人類の形に進化していったのは「神」を見たからだ、だったらさらに進化した脳ならより高次の「神」を見るのではないか、その「高次な脳」を作ってみようぜ!という話です。すごいネタバレだ。
これはBRAIN VALLEYを構成する一部であり、BRAIN VALLEYにはこれでもかと「神」と「脳」について山盛り盛り込まれているのですが、大筋はこんな感じです。
もっとも「神」といっても沢山あります。神ならpixivにもニコニコにもたくさんいます。BRAIN VALLEYでいう「神」とは、人類の脳が大脳辺縁系得に前頭葉を進化させたことで見出した「神」です。
あえて宗教でいうならば、キリスト教に代表される唯一神のことでしょう。このblog的にはロウの総大将、パワプロ神ですね。ところで知力のパラメーターがない人修羅はパワプロ神と戦えるんだろうか(ゴッドボイス的な意味で)。とりあえず監視塔が見えないのは確定として。
BRAIN VALLEYでは「神」は、宗教を人類に体験させた切っ掛け、「体験としての神」なので、船笠村では「お光様」であり、唯一神とイコールではありません。「出会った者にとって神としか呼びようのない存在」全般なのでしょう。
BRAIN VALLEYでは、それ(神としか呼びようのない存在)を神だと感じるのは人固有なのか、マウスやチンパンジーも同様に神を感じるのか、人工生命(AL)ならばどうかということを問いかけます。
こうした問いかけは前半から積み上げられていき、後半の「スーパー神降臨タイム」から、一気に際立ちます。この畳みかけは、とてもカタルシスを感じるところなので、ぜひとも前半の長い科学パートも読んでいただきたいところです。
BRAIN VALLEYの科学色が濃いところは、科学蘊蓄の多さではなくて、「計測できるものとしての神」に焦点を当て続けているところです。
神をテーマにした作品は多いですが、神を計測しようとする作品はあまり多くありません。多くの作品では、神は概念です。哲学や文学の領域であり、数値化できるものではないとされます。
「計測できるもの」として神を掴み取ろうとするからこそ、BRAIN VALLEYは科学色が濃いわけです。
最初に鉄鼠の檻を読んだとき、導入部分の「禅僧の脳波計測」から、これはBRAIN VALLEYの匂いがするなあと思ったのですが、読んでいくうちに、これはBRAIN VALLEYの「先」だなと感じるようになりました。
ひとまずはBRAIN VALLEYに戻ります。
BRAIN VALLEYは、観測しうる神を扱うので、体験データが何度も出てくるわけです。神に会った体験、作中では「臨死体験」ですね。
そして、神に会う、いわば幸福な体験と対になって、宇宙人にさらわれる恐怖体験「エイリアンアブダクション」が、作中重要な位置をしめています。BRAIN VALLEY前半の面白さは、アブダクション体験のホラー描写じゃないでしょうか。
ある悲劇の後、メアリーが「脳の中には天国も地獄もある」という考えに至ります。神との邂逅という幸福な幻と、エイリアンに誘拐される恐ろしい幻は表裏一体。どちらも人間の脳内から来たものだ、そう叫ぶシーンです。
ここから、BRAIN VALLEYが鉄鼠の檻に繋がっていきます。
BRAIN VALLEYは、「神秘的な宗教体験」をすべての元として出発します。あまりに強烈、あまりに超自然的、しかし幻だと思うにはあまりに現実感がある体験。そうしたものが人間の脳内に起るのなら、そのしくみを解明して、人工的に作り出せないかという話です。
鉄鼠の檻は、そうした超自然の宗教体験を「受け流す」ことから、禅の「悟り」は始まるのだ、という話なのです。
いうなれば、BRAIN VALLEYで、人々が命を掛けて追い求めたこと諸々を
「なるほど、そんな体験をしたのですか。ではそれを受け流しましょう」
から始まるわけです。
BRAIN VALLEYで、「神を見るという究極の答えを得てしまったら、それ以上の謎はないのではないか」という危惧が出てきますが、鉄鼠の檻はその危惧への回答かもしれません。
神を見るという究極の答えすら「受け流す」ことが「悟り」である。たしかに、これならば神を見ることはなんら危惧には成りえません。
また、鉄鼠の檻前半で、禅僧の脳波を計測しようという話が出るのですが、これはBRAIN VALLEYで言うところの「神を見る脳の働き」を知ろうとする部分と共通します。
鉄鼠の檻での実験目的は、瞑想中の脳波を知ることで、悟りの状態を解明できないかということなのですが、それは「悟り」を理解する上では意味がありません。
悟りというのは、BRAIN VALLEY的な脳の働きで見える宗教体験を「受け流す」ところにあるわけで、「宗教体験をしている脳の働き」を解明しても「悟り」はわからないのです。
BRAIN VALLEYで必死になったことをさらっと流すかのような鉄鼠の檻(というか禅)の流れに、BRAIN VALLEYを読んだ直後だと複雑な気持ちになります。
何故、鉄鼠の檻では宗教体験を受け流すことが悟りだとされるのか。それは、メアリーが叫んだ「脳の中には天国も地獄もある」ということにあります。
神との邂逅体験のような幸福な幻覚も、その裏はエイリアンアブダクションだったりするわけです。つまり、宗教体験というのは、悟りのような、人の感覚を超越した極地とはまったく違う、人の感覚内で起っているものに過ぎないわけです。
だから、それに目を奪われないで、受け流すことが悟りなのです。
普通、強烈な宗教体験を受け流すことはできません。たぶん。もしかしたら死なない限り無理なのかもしれません。だから鉄鼠の檻の作中で、禅は唯一生きたままそこに至る方法だ、という京極堂のセリフがあるぐらいです。生きたまま死者の境地に至る、というのは、まるで臨死体験の比喩のようです。
*認識と現実
BRAIN VALLEYと京極シリーズでは、認識と現実について触れている部分もちょっと共通しています。特にBRAIN VALLEYで、孝岡(主人公)がアブダクション体験をしている時の録画ビデオを見せられているシーンは、姑獲鳥を思い出しました。
基本的に両者とも「意識」、人の心を扱った話なので似る部分が多いのは当然なのかもしれませんが、アプローチが違うので比較すると面白い部分です。
言葉が「認識」に与える影響については、京極のほうが丁寧に描かれています。特に「塗仏の宴」では、言葉によって認識が誘導され、揺さぶられる様子が描かれています。
BRAIN VALLEYでは、メアリーの記憶がかなり唐突に書き換えられている部分があります。どのような方法で書き換えたのか、あるいはメアリー自身が認識したくない現実をねじまげて過去を捏造したのか、はっきり描かれていません。こうした部分は、京極シリーズのほうが事細かに書かれていたりします。
一方、京極シリーズでは薬物を使った記憶操作は、多少触れるのみでほとんど描かれていません。BRAIN VALLEYでは、「脳内での化学反応と記憶」の関係が丁寧に描かれています。個人的にBRAIN VALLEY前半は「脳内での化学反応と記憶」についてのスーパー蘊蓄タイムだと思います。
違う切り口から「認識と現実の差異」について描かれているので、両方を読むことでそれぞれのアプローチから、いかに人間の認識が脆弱なのか、何を信じればよいのかがわからなくなるスリルを楽しむことが出来ます。
基本的に、BRAIN VALLEYはスーパー蘊蓄タイムに次ぐスーパー蘊蓄タイムです。圧倒的な畳みかけは、「これ小学生に話す内容じゃない」と突っ込まれるのもうなずけることと思います。
鉄鼠の檻もスーパー蘊蓄タイムに次ぐスーパー蘊蓄タイムであることは同じですが、個人的に
「BRAIN VALLEYを読みきった人が鉄鼠の檻も読みきる確率」より
「鉄鼠の檻を読みきった人がBRAIN VALLEYも読みきる確率」のほうが低い気がします。
BRAIN VALLEYが話>>キャラクターなのに対し、鉄鼠のほうは話≦キャラクターぐらいに感じました。鉄鼠はキャラクターが楽しめればスーパー蘊蓄タイムが苦にならないような気がするのですが、BRAIN VALLEYはキャラクター補正でスーパー蘊蓄タイムを読みきるのはけっこう大変でした……。
ページは多いですが、どちらも大変面白い作品です。興味があれば是非読んでもらいたいなと思います。
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