サンダルフォンのほうが性格きついのは初代デビサマからの伝統のようです。お兄ちゃんは冷静だ。

 

*久しぶりにデビサマ起動した

……セーブデータないの忘れてた。最初からやり直しだよ!

とりあえず悪キョウジさんのえげつないシャフラギオンを堪能してシドと追いかけっこ。えげつねー悪キョウジさんのシャッフラーマハラギオンえげつねー。

ピシャーチャーってここしか出てこないな。

うわー、フグルマからやりなおしって、お兄ちゃんまでの道のり遠くね?!


 


*脳と人工知能と身体の関係を回転していくのは自然なこと

日曜日の「BRAIN VALLEYについて」続き。

BRAIN VALLEYにも出てきましたが、体を持たない人工知能の研究は閉塞してしまった歴史があります。

これはHAL伝説や恋するコンピュータなど、多くのAI本で出てくることなので、今出ている人工知能関連書籍であれば大抵押さえていると思いますが、「意識とは肉体があってこそ生じる」ということです。「未来の二つの顔」にも、肉体と人工知能の関係が出てきます。

脳だけ作るようなエキスパートシステムの延長では、人間の脳に類似した動きをする人工知能は作れない、人間の脳に類似させたいならば、人工知能に「肉体」を持たせる必要がある。比較的最近の人工知能系ではよく出てくると思います。

人工知能についてなにかネタを作ろうとすると、必然的に、脳、身体の発達、生命活動、ミーム……このへんも平行していかないと、先に進めなくなります。このへんをぐるぐる周回してしまうのは、人工知能ネタでは避けて通れないようです。

BRAIN VALLEYと京極でもう一つ思い出したのが、魍魎のラストです。

魍魎は「どこまでが生きていると言えるのか」に切り込んだ話です。

人の肉体故に人の意識になるのであって、これが人ではない肉体(脳だけの存在)になったら、意識だって変容する。脳が人間の意識の正体のように(さながら本質のように)言われているけれど、脳もたかだか1つの器官であって、そこだ取り出しても人間の本体を取り出したことにはならない、というのが出てくるんですね。

脳は、入力要素(肉体)から入ってくる情報を上映する劇場だ、というのはダニエル・デネットの「カルテジアン劇場」ですが、魍魎もほぼ同じです。肉体のフィードバックを含め、意識を「映している」のが脳であって、脳がイコールで意識の御座とはかぎらないよ、というのが何回か出てきます。脳は意識を映している器官にすぎないので、脳だけ生かしてそれで人間の精神活動を保存したといえるのか、もっとつっこむと、ここさえ生きてれば大丈夫、みたいな人間の一番重要な部分を抽出したといってしまっていいのか、ということです。

人工知能系の話では割と使われるネタだと思うのですが、非人工知能系ではあまり見かけない題だと思うので、印象に残りました。

ちなみにこの「カルテジアン劇場」、デビサバの「カルネジアン庭園」と同じ元ネタと思われます。(カルテシアン閉圏という数学用語もある)

 

BRAIN VALLEYでは、人工生命が意識を獲得するまでの流れを追いながら、生命活動によって意識が発達していくことを描いています。いきなり脳だけを作り出すような人工知能のアプローチは「人間のモデルを作る」という面においては閉塞しており、擬似的に「体」をもたせ、その体を「生きながらえさせる」ため、ALたちはニューロネットワークを発達させていきます。体あってこそ発達した脳であり、発達した脳だけを見て本質とは言えないというのは、この視点からでしょう。

もっともBRAIN VALLEYでは、生き延びるための脳ではなく、「生き延びるためには脳以外を進化させる選択肢もあったのに、なぜ人間は脳を選んだか」というテーマでラストのスーパー神タイム!に突入していくのが面白いのですが。
 

 
カルテジアン劇場で思い出しました。カルテジアンはデカルト主義者という意味ですが、「デカルトの密室」を買ったまま積んでいました。問題はどこに積んだのか忘れてしまったことです。

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