ページターナーという言葉はたぶんページとターンさせるものでターナーを合わせたものだと思うんだけど、異様に和製英語臭がする。

ようするに、ページをどんどん捲らせちゃうような中毒性の高い本のことらしい。燃費の悪い本とも言える。

こういう本に当たると、しばしば「暴力的に面白い本」という例えで考える。

面白すぎて電車を乗り過ごしたりご飯が食べられなかったり徹夜で読み続けて寝不足になったり遅刻したりする本は、読み手に対して暴力を振るっていると言っていいと思う。

 
 
以前はミステリをあまり読まなかったので、面白すぎる本がストレスの原因になることはまずなかったんだけど、ミステリを読むようになると、こう、読んでいて「イラッ」とさせられる率が高まった。

作中の探偵役が主人公とは別にいる作品に多いんだけど、探偵役はほぼ犯人がわかっているのに、決定的証拠が無いから今は言えない、みたいなシーンがあったりする。

そうなるともう、すごくイライラする。あんまり面白くない本ならいいんだけど、ページターナーな本ほどイライラする。何で知りたいと思った瞬間に何故自分は真実が書かれているページを読んでいないんだ、と不条理に怒る。

知ってるならさっさと教えろよ。

 

SFも基本的には最後のどんでん返し勝負で、物語のつくり(謎を解いていくという構造)はミステリとかなりかぶってるんだけど、何故か今までSFでイラッとすることはなかった。

たぶん、「犯人」みたいな特定できる固有のものが肝じゃなくて、人類類滅亡の危機みたいな大きな出来事、概念的なものが焦点になっているから「知ってるならさっさと教えろよ」と感じなかったのかもしれない。

SFの場合は、「知ってしまうこと」に抵抗もあるというか、知っていいの?知ったら後悔するんじゃないの?なんだかんだで一番幸福なのは知らずに済むことじゃないの?という恐れを感じる。

ミステリに「知ってるならさっさと教えろよ」とイラッとするのは、「どうせ個人名なんだろ?それぐらい教えてくれたって人類滅亡しないし、いいじゃないか」みたいな「教えてくれて当然」というおごりと言うか、SFに比べるとだいぶ「人間の手に負えるもの」の範囲だからとなめてるからかもしれない。

なんだろうなあ、犯人はヤスっていうのはやっぱりヤスって個人(そのポジジョンは衝撃的とはいえ)に帰着するミクロな問題なんだけど、これが幼年期の終わりとかだと、ラストのネバレが「人類が変質していってどんどん人類って枠に入らなくなって、人類って枠で説明できる対象が滅亡するまでの劇的変化」とかで、どう考えてもミクロな問題で終わらない。

そういう規模の違いかなあ。上から目線で「さっさと教えろよ」と思うか思わないかは。
 

ページターナーな本ほど、イライラするのだからたちが悪い。

今までで一番イライラしたのは女郎蜘蛛の理。次が百人一首の呪。あまりにイラッとしたのでラストの「関係者を一堂に集めてすべての謎を解くところ」から読み始めたら、すごく心穏やかに残りを楽しめた。

ページターナーな本はどうせネタバレ程度では面白さを損なったりしないんだから、イラッとする系の本に当たってしまったら、ラストを読んで、イライラの元を絶ってから、安心して最初から読み直すというのもアリだと思う。

 



こういうことが出来るのは、本が優れている点でもある。読み手は、情報を得る順番やスピードを、自分の欲望でコントロールできる。

ひとだび本として出版されてしまったら、作者は「読まれ方」をコントロールできない。どんなゲームブックでも、絶対にプレイヤーはズルができる。

 

逆に考えると、「俺の考えた鑑賞方法に最後まで従え」的な、作り手の想定した鑑賞方法を何が何でも守らせるメディアの最たるものは、舞台じゃなかろうか。

映画もいいけど、映画はどんな態度で見ても「映画から(見てるこっちの姿を)見られる」ことはないわけで。

舞台だと、舞台の上から観客が監視されるわけだ。ちゃんと「規定された鑑賞方法で観ているか」を。

だから、本は自由度で優れている。

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