最近、ノートを整理していたら、むかし練っていたSWの二次創作のネタを書きとめたものが出てきました。

どういうものかと言うと、ファラリスの信仰を仏教的に解釈しサルトルを加えた感じの小説アイデアメモです。

自由神としてのファラリスについては、ドラマガを買い始めた高校の頃からずっと考えを練っていて、このアイデアも大学時代に哲学の授業を受けたのがきっかけで書いた覚えがあります。

なんで今になってこんな黒歴史ノートが出てくるんだという懐かしさと、今読んでも面白かったというのにダブルで軽いショックを受けました。


リベラルな現代社会に慣れ親しんでいる日本人なら、一度は「邪悪ではないファラリス信者」について考えたことがあると思いますが、このアイデアメモはそういう話でもありません。


同じネタが既にあるかなと思ってググってみたのですが、どうもないみたいでむしろ不思議なぐらいなんですが、自由=煩悩と言う絶対束縛からの離脱=悟り つまりファラリスが説いているのは「汝本能の束縛から自由であれ(煩悩から解放された悟りの状態、仏を目指すべし)」という仏教の教えなんだ、という解釈です。


もう既出だろこのネタ……と思ってたのに、どうやら世に出ていないらしい。


さらに言うと、ファラリス自身は「まったく自由ではない」。自由を司る神なんて呼ばれながら、ファラリスには自由の能権なんてないんです。だって、戦争してるじゃないですか。自由(悟り)に達している、つまり「自由を自分のものとしている、体得している、何にも束縛されず、思考がなく言葉もなく涅槃にある状態」なら、そんなことするはずない。


私が書こうとしてアイデアを練っていた話は、自由とは何かを考え、真なる自由を求めるダークプリーストの放浪です。

若き日の主人公は、自由とは何かを考えていました。それが「根本的に生きることの悩みから解放された、真に救われた状態」(仏教でいう「悟り」)だと考えた主人公は、一般に自由の神と言われるファラリスがまったく「自由ではない」ことに気が付きます。

ファラリスは自由ではない(解脱できていない)。それどころか、六大神の一柱というとても強い力――人間なんて及びもつかない絶対的な力――があるにもかかわらず、なおそこに至ることができていない!至る方法すら示せないでいる!
つまりファラリスは「自由を求め、渇望する心」を司る神であり、自由など手にしていない――手にできない。それはまったく「自分が求めている物がどうやったら手に入るかもわからない、六柱の中でもっとも哀れであり、無能な神である」。

そんな「神に対する憐れみ」を覚えた瞬間、主人公はファラリスの声を聞いてダークプリーストになり、自由(仏教的にいえば涅槃)を求めて旅に出るという話です。


いくつか問題があって、こういう一面(自由=悟り)をSWの世界に存在させることはルール的に可能なのか?ということと、どこまでがファラリスの教義としてありえる範囲なのかがわからかったというのがあります。


この話のキモは、ファラリスを「信仰していない」ダークプリーストが主人公だ、という部分です。信仰とは、恐れ敬う事。つまり「ファラリスの神格を疑い、ファラリスを憐れんですらいる」人間が加護を受けている=それもまた信仰、とファラリスがOKを出している、という部分にあります。ここが通らないと、成立しないアイデアです。「邪悪ではないファラリス信者の話」と根っこが違うのはここです。


ファラリスは自由神なので、矛盾しているけどぎりぎり通りそうな通らなそうな……。


また、この話は、既存の信仰・社会・仕組みがあるからこそ、「ルールからの逸脱者」として主人公が浮かび上がる構造なので、世界を完全オリジナルに置き換えて、二次創作ではないストーリーとするのも、あまりうま味がありません。SWだからカタルシスがある、SWだから面白くなるアイデアだと思います。


主人公は神を憐れんでいます。だから、光の神の派閥はもちろん、闇の神の派閥、というか主人公以外のファラリスの信者から、「神を冒涜する者」としてすさまじく憎まれています。いわゆる「邪悪ではないファラリス信者」からも「淫祠邪教」扱いされます。


ファラリスの「汝が成したいように成せ」は、一般的には欲望のまま生きよというように解釈されます。しかし、そもそも「欲望」というルールが人を縛っています。では、「欲望」というルールから自由になりたい時は、何をすればいいのでしょうか。ファラリスは「自由ゆえに理性を持て」と言いますが、欲望というルールから「解放される方法」は何も言いません。(主人公に言わせれば、ファラリス自身その方法がわからないから四苦八苦しているのです)


SWの世界は「世界がある」ことそのものが「ルール」でできています。(私たちがあるこの現実世界もそうですが。)
生きるために他の生き物の命を食べるのもルール。生きようとする意志もまたひとつのルール。生きるのに疲れて死のうと考えるところまでやっぱりルール。主人公の言葉を借りれば「私がまさに私であること。それ自体が、私を追いかけまわし、一瞬でも逆らったり一所にとどまろうとすれば、欲や恐怖や愛や喜びと言った鞭でさまざまに叩き、再び走らせようとする。まさにこれがあらゆる苦痛の根源であるのに、この鞭は私が死んでも魂を追いかけまわし、一見すれば逃げ場はどこにもない。この世界そのものと言うルールから、一足飛びに逃げ出すほかには」


自由と言う事は、つきつめれば孤独です。生き物に等しく投げかけられるマーファの慈愛ですら「欲や恐怖や愛や喜びと言った鞭」のなかのひとつです。こうした「鞭」から一切合財解放されることが「自由」であるなら、それは「世界がある」という大ルールへの反逆行為なのかもしれません。自由=悟り意外に、自由=反逆行為という面についても書こうとしたのか、いくつかメモされていました。ファラリス以外の全ての神(今の世界を破壊しようとするカーディスも含め)は、それぞれが持つ「ルール」に従っている。ただ1人ファラリスだけ自由(=ルールの働かない「世界の外」)を唱えたので、この時点でファラリスはファラリス以外の他全部を敵に回す可能性があった。……とかなんとかそういうことも書いてあったんですが、これに手を出すと本来書きたかった「駄目な面を持った、そこがちょっと人間臭くて愛すべき神」というネタが書けなそうなのでたぶん没になったんだろうと思います。世界すべてに対する反逆者とかカッコいいですが、たぶんそれもうファラリスじゃない。


主人公は、神を敬うどころか、「自分と同じく悟りを求めて四苦八苦する仲間」ぐらいの敷居の低さで見ています。こうした「神をコケにした態度」が私には面白い。
この神の解釈が果たしてアリなのかナシなのか。ネタを考えた当時から悩んでいる点なのですが、たとえ成り立たないとしても、久しぶりに見返した「真なる自由を求めるダークプリーストの放浪」のアイデアは、今見ても面白く感じます。

ファラリス信者だけでなくファラリスそのものを「悩みや諦めをもった、感情移入の対象(キャラ)」にしてしまっているあたりがアウトっぽいですが、自分を逮捕しにやってきたファリスの神官戦士に「ファラリスは自由の神ではない」と説く主人公や、自分を殺しに来たダークプリーストに向かってファラリスを「あの無能」と言い切る主人公の姿は、いつか話として書いてみたいものではあります。

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